祖母の話

上にも書きましたが養老院にいた祖母が入院しまして。
たしか大正14年生まれだったと思うので、79歳でしょうか。多少ボケ始めていましたがまだ元気だった祖母も、今年の夏の暑さには耐えかねたようです。
最初、入院したものの命の心配はないという話だったのですが、昨夜父からかかってきた電話では、予断を許さないを通り過ぎて、もう長くないとのことでした。
祖母は、父の実の母ではありません。必然的に私の実の祖母でもないわけですが、実際に血のつながりのある親類の誰よりも可愛がってもらった記憶があります。今思い返せば、どうしようもないくらい甘やかされた思い出ばかりで、子供の時ならいざ知らず、いい年になった今では、我ながら眉をひそめてしまうようなことばかりでしたが。
祖父と祖母の家に遊びに行ったときは、いつでも好物のエビフライが山盛りで出てきました。毎年のように数え切れないほど衣類を買ってもらいました。小学生にはすぎた金額の小遣いを貰っていました。
祖母の愛情は、いつも物質的なもので、目に見える形で与えられました。
中学に入ったあたりで、そういう即物的な喜びに懐疑的になり、ストレートに物をくれることで示される愛情というものに反発したこともありました。今となっては、戦中戦後の物のない時期に女学校を卒業し、結婚してすぐに夫を戦地に送り出し、出征したまま戻らない*1夫を待ち、農地改革で地主の跡取り娘の地位を失った、そんな日々が祖母の衣食への執着と即物的な物のやり方の裏側にあったような気がしてなりません。
既になくなった祖父は、戦中のことについて聞くと、ポツリポツリと話してくれました。
楽しかった思い出はいろいろとあるようですが、戦地である南方*2の話と、シベリア抑留時代*3の話は、泣きながらポツリポツリとしか話してくれませんでした。
祖母は、それ以上にそのころの話は一切しない人でした。父の子供時代(昭和30年代)より前の話は聞いた覚えがありません。
子供にあまり苦労話を聞かせたくなかったのかもしれませんが、それ以上に、あまり思い出したくないような辛いことが多かったのではないかと思います。


埒もなく祖母と祖父の話を書いてしまいました。
大正の末に生まれた二人にとって、昭和とは、20世紀とはどんな時代だったのか、思わずにはいられません。

*1:祖父はシベリアに抑留されていたらしい

*2:ビルマという話。連隊名までは聞いていないが、栃木県で徴兵されているので、宇都宮(第14)師団管区からビルマ方面に行った第33師団の可能性が高い。かのウ号(インパール)作戦に参加した弓兵団である。

*3:父曰く、シベリア抑留などされてないと言う。私が祖父から聞いた話とは食い違うのだが。もしかしたらただ復員が遅かっただけかもしれない。