今日の信濃毎日新聞のコラムがあまりにステキだったので

ぜひ言及したかったけど、信濃毎日新聞のサイトでは記事を掲載していないし、記事を転載しているサイトもなかったので、いたしかなたなく全文抜粋。

信濃毎日新聞 2006年4月27日 5面(解説・総合) コラム記事「潮流」

「すりかえ」「排除の匂い」警戒 渋谷秀樹



日本で、いま「国家の品格」「この国のかたち」「愛国心」という言葉を目にしない日はない。これらに共通する「国(国家)」とは果たして何か。

この問いに答えるのは実は容易でない。国の本質は、生物学、哲学、社会学、経済学などさまざまな学問の研究対象であった。私の専攻する憲法学では、国とは「人間(国民)」「空間(領土領海領空)」「支配(統治)」の三要素から成る、と説明するのが一般的である。そして「支配」を担当する「政府」がこれらと不可分の要素と位置づけられる。

さて、「日本の国」というとき、常にこれら三要素から成る国を指しているのだろうか。たとえば、昨年、アスベスト対策が問題となったが、「国の責任だ」というときの「国」は、三要素から成る国ではなく「政府」を指しているのは明らかである。

では、「国家の品格」「この国のかたち」というときは何を指しているのか。前者は国民性、後者は政府の政策のあり方を指しているのではないか。とすれば、それぞれ国民の道徳、政府の基本政策と呼ぶことが正確である。大げさに国を持ち出すまでもない。

愛国心」の場合はどうか。愛国心ほどそれぞれに思い入れを込めて使われる言葉はない。あえてその共通点を、日本の自然文化伝統などを大切にする気持ちととらえることにしよう。とすれば、愛国心とはいわず、日本の自然伝統文化などを愛する心と表現すれば足りるはずである。

政治家が愛国心を口にするとき、なぜうさんくささを感じるのか。その理由は、アジア太平洋戦争の際に、これらを愛する心を巧みに「政府を愛する心」「現政権の政策を愛する(=無条件に支持する)心」にすりかえ、政府の意のままに国民に犠牲を強いた歴史的事実から容易に想像することが出来る。

ところで、最近の話題は、なんといってもトリノ・オリンピックでの女子フィギュアスケート荒川静香選手の金メダルと、ワールド・ベースボール・クラシックでの日本チームの優勝である。さて、彼女と彼らは日本の国の代表であったのか。明らかに三要素から成る国の代表ではないし、日本政府と何の関係もない存在であることも確かである。彼女と彼らは、日本国民の代表なのである。野球の日本チームが優勝した瞬間、ある人が「日本人に生まれて良かった」と叫ぶ様子がテレビに映し出されていた。それは自分たちの代表が素晴らしいことをした、という直感的な、しかし的を射た喜びの表現であった。

以上、「国民」「日本人」という言葉をやむをえず使ってきたが、これらの言葉にも敏感でありたい。国際化の流れのなかで、これらの言葉には「排除の匂い」がするからである。

いま、日本の領土には日本の国籍をもたずに暮らしている人もたくさんいる。「日本人」の定義も、日本国籍をもつ人という意外に明確なものはない。しかし、日本国籍をもたない人もみんな同じ人間である。日本の領土に、いま一緒に暮らしている人は、みんな「日本の国」を支えている人間なのである。そんな人を排除しようとする政策や論説、排除の匂いのする言葉は、できるだけ排除するべきである。日本の国としての品格は、そのときにこそ真に高まると思う。

【しぶたに・ひでき】

立教大大学院法務研究科教授(憲法学)。1955年兵庫県生まれ。東大大学院博士課程単位取得退学。主な著書に「憲法への招待」「日本国憲法の論じ方」など。

まぁ、なんというか。「すりかえ」を警戒している記事とやらが、その文中で論点のすりかえを臆面もなくやっているところが素晴らしいというか、実にクオリティの高い文章です。
こういう度し難い難度の高い文章を書かれる方が恥ずかしげもなく公器たる新聞に出ていらっしゃる日本という国は、じつにもって素晴らしい品格をもっている国ですね。

以下、とりあえず何点かツッコミ。

愛国心」の場合はどうか。愛国心ほどそれぞれに思い入れを込めて使われる言葉はない。あえてその共通点を、日本の自然文化伝統などを大切にする気持ちととらえることにしよう。とすれば、愛国心とはいわず、日本の自然伝統文化などを愛する心と表現すれば足りるはずである。

いや、いちいち「日本の自然伝統文化などを愛する心」と言うより、「愛国心」と言った方が文字数省略できるし、通じる意味が一緒ならスマートな言い方の方が良いんでないの?それと、突然「政治家が愛国心を口にする」って出てくるんですが、これはどこから紛れ込んだ話題ですか?

さて、彼女と彼らは日本の国の代表であったのか。明らかに三要素から成る国の代表ではないし、日本政府と何の関係もない存在であることも確かである。彼女と彼らは、日本国民の代表なのである。

つまり、「日本政府」と「日本国民」とは何の関係もない、と。そう仰りたいわけですね。きっと、日本政府は日本国民とは全く無縁に存在しうる組織なんですね。憲法解釈を突き詰めるとそこまで現実を無視することができるんですね。

以上、「国民」「日本人」という言葉をやむをえず使ってきたが、これらの言葉にも敏感でありたい。国際化の流れのなかで、これらの言葉には「排除の匂い」がするからである。

こんなすごい話し始めて聞きました。「国民」「日本人」は排除の匂いがするですか。じゃぁ、明日から我々はどう自称したら良いんでしょうかね。
「日本に暮らしている人間の中で日本民族出身のものです。」
とでも言えと?

いま、日本の領土には日本の国籍をもたずに暮らしている人もたくさんいる。「日本人」の定義も、日本国籍をもつ人という意外に明確なものはない。しかし、日本国籍をもたない人もみんな同じ人間である。日本の領土に、いま一緒に暮らしている人は、みんな「日本の国」を支えている人間なのである。

いや、日本国籍をもたずに日本に暮らしている人は「外国人」ですから。憲法の定めるところの「人間(国民)」ではないですから。排除しようとするな?別に日本に暮らすことから排除しないし、参政権とか欲しかったら日本国籍をどうぞお取りください。


ていうかね。もうね。アホかと。きっと憲法改正議論とかに「ぐんくつのおとがする!いつかきたみち!」とか反対するんだろうね、この人。