書きかけ

アスファルトを叩く雨音が不意に止んだ。
久志が気配に気付いて振り向くと、そこには一匹の大きな犬が、濡れそぼった長い毛の間から様子を覗うように立ち尽くしていた。
「どうしたんだい?」
何という種類の犬だろうか。視線の位置は、中学3年生にしては小柄な久志の胸元近くまである。
長いく白い毛は水分を吸って重く垂れているが、それでもどこか艶やかだ。発達しピンと伸ばした後ろ足と、長く大きく裂けた口許は、この犬がただの愛玩犬ではないことを示していた。
普通の少年であれば畏れを成して飛び下がるだろう。しかし久志は、力ない笑みで目の前の大型犬に話しかけた。
「僕に何か用かい? 残念だけど、君のお家は僕には分からないよ。」
久志は柔らかく声をかけながらも、急な動きを見せたり手を挙げたりしないように気をつけていた。犬は、突発的な動きに対して防衛行動を起こす生き物だ。唸りもせず牙も剥いていないが、僅か1mほど先でこちらを凝視してくる様子はやはり緊張させられる。
傘の端から滴る雨越しに観察すると、その犬の身体には首輪らしきものも胴輪らしきものも、何も見えない。ということは、野良犬か首輪が必要ない生活をしている犬のどちらかということになる。そして、久志を凝視している犬は雨に濡れてさえみすぼらしさの影も見えない、堂々とした姿である。
「この辺でそんな大きな家っていうと、山上邸くらいかなぁ。」
独りごちている久志の前に、その犬は静かに歩み寄ってきた。
「えーと、どうしたのかな。」
中腰になって視線を合わせる久志に対して、その犬は表情も変えずに正面から相対した。
久志が固唾を呑んで見つめるのを意にも介さず、犬は長い舌を出すと久志の顔をべろりと一舐めした。
「うひゃ!」
久志の、痣が浮き腫れ上がった頬や、切れて血が滲んだ唇を、その犬は確認するように嘗め回す。犬の白い口許に、僅かに血の赤が付いた。
「……うわ、ちょっと……あうっ……あはは、痛いよもう。」
くすぐったさに久志が顔を引くと、犬は相変わらずの冷淡な表情で鼻息を一つ漏らした。そして、久志をもう一度一瞥すると、踵を返して雨の中へと歩いてゆく。音を立てて降りしきる雨も気にせず悠々と立ち去るその後ろ姿は、どこか毅然として高貴ですらあるように、久志には思えた。
「変な犬(こ)」
思わずにやけた久志の顔には、先ほどまでの全てを諦めた笑みとは違う、年相応の笑顔が浮かんでいた。


弓削久志は、どこにでもいる平凡な少年である。
中学3年生にしては小柄な身長と、それに見合った体格。そこそこ整ってはいるが気弱そうで覇気のない表情。そしてオドオドと人の様子を覗うような態度。それらを合わせると、平凡よりは幾らか見劣りする少年というのが正しい評価かも知れない。