「最後の授業」のはなし

戦史を追いかける中で、第一次大戦の遠因の一つである普仏戦争のおさらいをしていたところ、アルザス・ロレーヌの割譲から「最後の授業」を思い出したんですな。
ドーデのこの小説、私が小学生だった時期には国語の教科書に載っていまして、その後、問題点を指摘されて掲載されなくなったと聞いていました。
ちょうどその事件(というほどでもないか?)に触れているblogがあって、それを一読。
こちらです。http://artifact-jp.com/mt/archives/200308/thelastlesson.html
asahi.comの、EU統合に向かうアルザスの現在の姿も新鮮だし、ドーデの描く「最後の授業」の悲しみは、母国語を奪われる悲しみではなくフランス語(そしてフランス文化)を学ぶ機会を奪われた悲しみだとする意見も興味深い。
ただ、実際に国語教育の一環としてこの「最後の授業」を読んだ身としては、未だに釈然としないモノを感じているんですな。
Artifactさんでコメントされている方のまとめてくださった内容を読むと分かるように、「最後の授業」は、母国語を奪われる、すなわち民族的な誇りを奪われる(に近い)悲しみと屈辱を著した物語として紹介されていましたし、私の受けた授業ではそれをナショナリズム的な文脈ではなく、台湾や朝鮮で行われた日本語教育などと組み合わせて、戦前の日本の過ちを反省する、といった文脈に導かれて教わった記憶があります。
これが、日教組的な指導に基づいたモノなのか、それとも、当時の担任教師(個人的に尊敬している恩師ですが)が個人的に意図したモノなのか分かりませんが、少なくとも単純に「ええ話やなぁ」で済むような誘導ではなかったわけで。
「最後の授業」が書かれた背景も、ちょっと調べてみると、かなり微妙。
普仏戦争で割譲されたアルザス・ロレーヌ地方の帰属は、フランク王国分割(メルセン条約870年)以降ドイツともフランスとも言い難い複雑な経緯を辿っているし、また、文化的にどこに帰属するかと政治的にどこに帰属するかが必ずしも一致しないのは、ヨーロッパでは珍しいことではない。むしろ、アルザスの経済的価値(石炭や鉄鉱石の産地)も絡めて帰属問題が大きくなるのは、国民国家が成立する≒徴兵制が始まるフランス革命以降。ともかく、国語の授業で明確には言っていないけれども、そう錯覚するように誘導されていた、「アルザスは元来フランスの一部」という認識は間違っていると見ていい。
また、ドーデがフランス人の愛国者で、その息子が右翼的な政治団体の構成員だった事なんかも考えれば、一種反独プロパガンダとして書かれた面があることは動かないと思われる。普仏戦争は、この地方の割譲が無くても、フランスにとってはさんざんに叩きのめされた戦争だったのだから。
もっとも、ドーデがそう言った意図の下にこの小説を書いたことは、特に非難するには当たらない。当時の読み手(その多くはフランス人)にとって、そんなことは端から承知であったろうし、気持ちも少なからず一緒であったろうから。現在の我々からすると、ちょっとこすっからくて胡散臭く見える部分はあるとしてもね。
問題は、この感動的かつその下には複雑な背景を持つ作品を、きちんとした説明も無しに小学生の教材として提供しちゃった、その上、日教組的な反戦教育風味に使っちゃうのはどうよ?ってところ。
当時全国の小学生が私と同じような授業風景を目の当たりにしたとも限らないので、「日本は台湾や朝鮮の人にひどいことしたんだな。反省しなきゃ」と思ったかどうかは分からないけれど、「ドイツはひどいことするなぁ」ぐらいのことは思ったんじゃ無かろうか。(少なくとも、無知蒙昧な当時の私はそう思った。)
今、授業で習ってから20年近く経って、私が感じるのは、「なんだかなぁ」という微妙な不信感と、「感動して損したぜ」というちょっとした不満。ぶっちゃけ、後味がよろしくないわけですな。

国語の教材一つとっても、疎かに出来ないよね。教育って難しいよね、ってお話でした。