批評するということ

作品を批評するということについて。
いわゆる「批評好き」な人というのはどこにでも存在する。たぶん、10人集めると7人くらいは何かしら批評をしたがっていることだろう。あとの3人も、出来れば批評したいのだが他の7人より出遅れてしまい聞き役に回らされるタイプだろう。人というのはとかく何かを標的にして持ち上げたり落としたりせずには居られない生き物なのだ。


かくいう私も、何かしら批評したくてたまらない人間の一人である。
他人の小説を読んでは頭の中で批評し、あるいは貶しあるいは絶賛し、あまつさえブログなどに「個人的メモ」などと称して及び腰で載せてみたりする。
他人の作品を無責任にべた褒めしたり扱き下ろしたりすることは、それ自体が非常に楽しい娯楽であるといえる。


だがこれが批評を受ける側に回ると、とたんに話が変わってくる。
なにしろ自分で書いたものだから、どこがよくてどこが悪いかなど自分でもよく分かっている。それだけに的確な指摘は実に耳が痛い。逆に、まるで見当外れの指摘をされた場合にはそれ以上に理解に苦しんだり、あるいは自分の表現力の拙さ故に無用の誤解と的はずれの批評をされるのではないかと悩んだりする。
そして、悩んでいるうちに創作意欲が減退し、何か逃避行動を取り始め、挙げ句に小説書きのことなど忘れてしまおうと思ったりする。
批評する側にいるときの無責任克つ気楽な放言に対して、批評される側の深刻さの間には、いっそ喜劇的なまでのコントラストがある。


なぜ、人は批評せずにいられないのか。
そこにはもちろん、純粋に作品を読んだ(あるいは見た、聞いたでもいい)事によって生まれた感想や、その感想を元にした分析もあるだろう。
だが、嫉妬や羨望、あるいは自身の立ち位置を保全しようとする保身衝動によって、何とかしてその作品を自分の中でレッテルを貼り、自らの優位性を維持しなければ我慢できないという心理作用も多く働いている。有り体に言えば、「自分もこんな話を作りたい」「自分ならもっとこうする」といった創作指向を持つ人が、なおかつ実際には自分で創作を行えない時に行う代償行為もまた批評である。
おしなべてまとめるならば、批評とは視野に入った無視できない存在を、自分の常識の中に組み込み整理して、心の片隅になんとか押し込むんで自分を納得させる行為である。


批評が、自分の心を整理する行為だとするならば、それはごくプライベートな心の働きであり、自分自身が納得しさえすれば、他人の理解を得る必要全くない。
極論すれば、他人には全く理解不能なレッテルを貼っても、自分の心の内だけならば何ら問題はない。『ライ麦畑で捕まえて』を読んで「引きこもりの妄想」とタグを付けようと、『こころ』を読んで「細かいこと気にしすぎだろ」と感想を付けようと、他人に言わなければなんの問題もない。
だが、人は自分の中で下した批評を他人に伝えたくなる生き物でもある。
ごくプライベートな心理行動であるはずの批評は、他人にその内容を伝えようとするとき、ただ自分が納得すればよい理屈では居られなくなる。
他人に伝える以上、出来うる限り論旨を理解してもらい賛同してもらいたい。そのためには、他人にも伝わりうるだけの論理と、それを補強するためのレトリック、そして最後まで読み通すに足るだけの文章としての面白さを備えなくてはならない。
つまり、人前で何かを批評するということは、話芸であり文芸でなくてはならない。
これは、文なり絵なり音楽なりで芸をすることに真剣に取り組んでいる『創作者』に対する最低限の礼儀でもある。


もし、あなたが何かを批評しようと思い立ったならば、それを人前に出す前に自分の心に問うてみてほしい。
あなたの批評は創作者の真剣さに見合うだけの真剣な気持ちに基づいているか。
あなたの批評は他人の心に共感と理解を生み出すに足るだけの理論と根拠とレトリックを持ち合わせているか。
あなたの批評は最終的にその創作者や作品に寄与することが出来るのか。
もしそれらの問いに答えられないのならば、安易な批評は一度思いとどまるべきだ。もう一度練り直してからでも遅くはない。言葉は剣であり、一度振るわれたら決して取り返しは付かないのだから。

注意書き

このエントリの主旨は、「批評しないでくれ」ということではありません。「批評するならもっとうまくやってくれ」ということです。